岐阜歴史博物館 [犬山城]

先日、岐阜歴史博物館に行ってきた。

ちょうど、27日まで特別展 城主の格式をやっていたから。

城主といっても、岐阜城ではなく犬山城であるが。


犬山城主成瀬氏の愛用道具などが展示されている。

刀や槍 鎧

殿様が書いた絵などが展示されている。

27日まで公開。


帰りに山頂の岐阜城や、信長の館の発掘現場を見てみるのもいいかもしれない。

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こちらが、特別展のポスター

玄関で撮ってみた。

そして、こちら

88.jpg

信長の屋敷の門のあとに復元したらいい。

ここをくぐっていくと、屋敷の発掘現場にたどり着く。

ちょうど、暗闇だったので何も見えなかった。

また、次回に行こうかと思う。

それにしても、これだけの山城を攻め落とした
秀吉はさすがだな。

当時はこんな本もなかったのだろうに。


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武士の家計簿 原作 磯田道史 [犬山城]

本日、愛知県の犬山市で武士の家計簿の原作者  磯田道史氏の講演会に行ってきた。

武士の家計簿といえば、この映画ですね。




これまでの武士を描いたドラマ、映画などは戦いなどを主体にしたものや
水戸黄門、暴れん坊将軍など

架空のストーリーの元に作られたものが多かった。

だが、この映画の原作

武士の家計簿は、史実を下にかかれたもので
実際の武士

しかも、戦うことなく経理担当の武士の生活を描いた
新鮮なものだった。

原作はこれなんですけど



約8年前に発売の本ですが、いまだにアマゾンのランキング1位にいるというのが
作品の質の良さが認められているからでしょうか。

そして、本日の公演のタイトルが

武士の家計簿そして御三家付家老

といっても、武士の家計簿に関する話はほとんどしなかった。

地元、犬山に関連する話を中心に話された。

犬山という場所は、国宝犬山城のある場所。

戦国時代に立てられた城が、現在も残っているという点が
他の国宝の城と歴史観が違うというのでしょうか。

しかも、個人所有というのがこの城の特徴の1つでもある。

江戸時代からの城主、成瀬氏の子孫が代々所有しているという
珍しい城。

先代の成瀬家の当主が書いた本にこんな本もあります。



城を売る男



今回の講演は、この成瀬家初代といっても、犬山における初代 成瀬正成について
語っておられた。

内容は話せないが、この成瀬正成とその前の城主 平岩親吉について
のはなしだった。

現在、隣の岐阜県にある岐阜歴史博物館では、城主の格式と題して
犬山城主の生活道具などが特別展として展示されている。

こちらも、27日までだがお勧めである。

詳しくは公式サイトへ



http://www.rekihaku.gifu.gifu.jp/




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土田城をたずねて [土田城]

土田城へ行ってみた

といっても、山の上にあるので頂上まで上るのは断念。

土田城は、岐阜県可児市にあった山城。

美濃土田氏の居城。

この土田氏の出身が、織田信長の母親 土田御前である。

そして、織田信長の側室 吉乃の生駒氏とも親戚関係でもある。

吉乃の最初の夫も土田氏である。

さらにいえば、明智光秀の一族とも婚姻関係を結んでいる土田氏である。

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土田城のふもと

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土田城の碑

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ふもとにあった、説明

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楽田城へいってみた [楽田城]

本日は楽田城の話。

楽田城は、尾張国丹羽郡楽田(現在の愛知県犬山市楽田)にあった城である

楽田の地は濃尾平野の東部、犬山の南・小牧の北に立地し、
尾張の中心部と信濃の木曽を結ぶ木曽街道が通る近辺にあった。
平城 。現在ほとんど遺構は残っていないが、「天守」に当たる建築物を建てたとの記述が
歴史文献にある城としては最も古いとされる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E7%94%B0%E5%9F%8E

一番話題になったのは、小牧・長久手の合戦の舞台になった。

犬山城と小牧山城でにらみ合う両者

その前線での重要拠点であったと考えられる。

規模も割りと大きい城郭だったようだが、戦後廃城になり
現在は小学校建設の際に、すべて埋め立てられた模様。

天守台のあとのような場所に碑がたっている。

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碑が立ってる場所

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階段を上ると碑があります

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案内看板

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坂本城を訪れて [坂本城]

今回は坂本城を訪れてみました。

坂本城は、近江の国 現在の滋賀県大津市にありました。

琵琶湖の湖畔にあり、信長の比叡山焼き討ちのあと
近江の国の平定を任せられた、明智光秀がこの地に城を建てた。

単に琵琶湖に面してるだけでなく、本丸に琵琶湖の水を引き込み
交通に利用したという話もある。

本能寺の変のあと、山崎の戦いで敗れた光秀の重臣
明智秀満が城に立てこもり、秀吉方の包囲軍と戦ったあと
城を燃やして自害したという。

この話は現実性が薄いとされている。

現在は、坂本城址公園として整備されている。

跡地に光秀の像と、石垣あとが残っている。

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坂本城址公園の全景

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明智光秀の像

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像の前にある碑

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石垣あと?

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城址公園からみた琵琶湖

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鳥居があったが、何かの関係があるのかは不明

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公園の休憩所

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こちらも、公園の前にある碑

コレはなかったら、場所がわからなかったかも

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水路あとなのか?
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木ノ下城 [木ノ下城]

今回は木ノ下城をたずねてみました。

木ノ下城はあまり有名ではありません。

もちろん、秀吉とは関係ありません。

では、木ノ下城をすこし解説

1469年(文明元年)、越前国・尾張国の守護斯波義敏の命により、
織田広近(尾張国上四郡守護代の織田敏広の弟)は小口城から犬山に移り、木ノ下城を築城し、城主となる。

美濃国の斎藤妙椿に対する牽制の役割があったという。

織田広近は犬山の乾山には戦い用の砦を築いている。
1537年(天文6年)、織田信康は乾山の砦に城郭を造営し、犬山城として整備する。

木ノ下城は廃城され、織田信康は犬山城に拠点を移す。

1564年(永禄7年)、織田信長が犬山城に籠もる織田信清を攻める際、
かつての木ノ下城址に宿営し、犬山城攻めの拠点とする。

1606年(慶長11年)、木ノ下城址に愛宕山長泉寺延命院が建立される。
延命院は明治初期の廃仏毀釈、神仏分離のため廃止され、延命院の中にあった愛宕神社になる。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E3%83%8E%E4%B8%8B%E5%9F%8Eより

つまり、犬山城の出来る前に存在しており
ここを解体したあとの材料が犬山城に使われているということらしい。

現在は、石垣が名残をとどめている。

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これが、木ノ下城の碑。

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これが、木之下城の井戸であった、金明水です。


222.jpg

最後に、城跡に立てられた愛宕神社

石垣はそのまま利用してるようです。


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富士塚をたずねてみた [富士塚]

富士塚というのは全国にあるみたい

今回紹介するのは、あの小牧・長久手の戦いに関係する場所

愛知県の富士塚の話。


富士塚は5世紀末頃に造られた前方後円墳である。
1584年の小牧・長久手の合戦のときに、生駒屋敷を訪れた
徳川家康が織田信雄とともに富士塚に登って豊臣秀吉勢の
布陣を観察し、小牧山の先取りを決意したといわれている。


 後に生駒氏六代の利勝は、初代・家広からの由緒と武功を
後の世に伝えるために碑を建てた。

以前、紹介した生駒氏がここでも出てきます。

織田信雄は吉乃さんの子供ですから、自分の生まれた家に立ち寄った
感覚でしょうか。

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現在も、こんな感じで塚は残されています。

ここから、秀吉軍のいる犬山城は見ることは出来ません。

当時は、高層建築物がないので見えたかもしれません。

のちに、家康の布陣する小牧山城はなんとなく見えました。

こんな感じで

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だいぶズームして撮りました。

当時の人は目がよかったのか。

結果的に、このあと秀吉が天下を取ったわけですが
この戦いには、家康が勝利した形になってます。

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鵜沼城を訪ねて [鵜沼城]

今回から、鵜沼城を紹介していこうかと思います。

鵜沼城はあまり知名度がありません。

まずは、歴史から

築城されたのは永享年間(1429年 - 1440年)で築城者は大沢利治という。
大沢氏は土岐氏・斎藤氏に仕え、この地方に勢力をもっていたという。

戦国時代中期の1564年(永禄7年)、織田信長は木下藤吉郎に、鵜沼城と伊木山城の攻略を命ずる。
しかし、城主の大沢治郎左衛門の抵抗は強く苦戦する。

しかし、木下藤吉郎の調略に大沢治郎左衛門は応じ、城を明け渡した。

こうして大沢治郎左衛門は織田信長の配下になるが、信長は大沢に疑いを持ち、
これを亡き者にしようと企てる。

これに気づいた木下藤吉郎は大沢治郎左衛門を逃がし、城は主を失った。

その後は犬山城主の池田恒興に与えられ、恒興が国替えになった後は、
中川定成が犬山城に入り、同時に鵜沼城をも支配した。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E6%B2%BC%E5%9F%8Eより

この説明からわかるように犬山城の向にあるのが、鵜沼城。

犬山城とは対照的な運命をたどってます。

犬山城は現在までのこり国宝に。

鵜沼城は秀吉の天下統一のあと、廃城に。

その後、旅館などがあったようだが
現在は廃業し、跡地にも入ることができなくなっている。


これが、鵜沼城の全景

現在は、建物がなく山だけが残ってます。


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生駒屋敷の看板です [生駒屋敷]

1.jpg

生駒屋敷あとに立てられていた看板です。

主な説明が書かれています。

これをみると、秀吉が信長に出会ったことが書かれています。

こうみると、教科書で習った歴史はなんだったんだろうと
思ってみます。

最後に、生駒屋敷の跡地はどのあたり?

地図を乗せてみます


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桶狭間の作戦は生駒屋敷で立てられた [生駒屋敷]

織田信長が、今川義元を破った桶狭間の戦い。

そのときの作戦が、生駒屋敷で立てられた。

というような話がある。

この生駒屋敷には、各地の旅人が訪れており
情報戦略を重視する信長にとっては、全国の情報を得られる貴重な場だったとされております。

その情報を元に、桶狭間の作戦がたてられたのでしょう。

ここは、信長が吉乃さんとであった場所だけでなく
全国の情報を集められる場所でもあったということになります。

実はもう1人、ここで信長とであった重要な人物がいます。

それが、豊臣秀吉。

この屋敷に出入りしていた、秀吉が信長とであったのもこの場所だったと
いわれてます。

信長と出会ってなかったら、秀吉の人生はどうなっていたのでしょう。

そう考えると、貴重な場所であったと感じます:。 本日の一票お願いします。⇒にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
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タグ:豊臣秀吉
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ああ

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