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生駒屋敷の看板です [生駒屋敷]

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生駒屋敷あとに立てられていた看板です。

主な説明が書かれています。

これをみると、秀吉が信長に出会ったことが書かれています。

こうみると、教科書で習った歴史はなんだったんだろうと
思ってみます。

最後に、生駒屋敷の跡地はどのあたり?

地図を乗せてみます


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桶狭間の作戦は生駒屋敷で立てられた [生駒屋敷]

織田信長が、今川義元を破った桶狭間の戦い。

そのときの作戦が、生駒屋敷で立てられた。

というような話がある。

この生駒屋敷には、各地の旅人が訪れており
情報戦略を重視する信長にとっては、全国の情報を得られる貴重な場だったとされております。

その情報を元に、桶狭間の作戦がたてられたのでしょう。

ここは、信長が吉乃さんとであった場所だけでなく
全国の情報を集められる場所でもあったということになります。

実はもう1人、ここで信長とであった重要な人物がいます。

それが、豊臣秀吉。

この屋敷に出入りしていた、秀吉が信長とであったのもこの場所だったと
いわれてます。

信長と出会ってなかったら、秀吉の人生はどうなっていたのでしょう。

そう考えると、貴重な場所であったと感じます:。 本日の一票お願いします。⇒にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
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タグ:豊臣秀吉
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生駒氏の菩提寺です [生駒屋敷]

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生駒氏の菩提寺


ここに、吉乃さんの墓もあります。

生駒屋敷あとから、遠くない位置にあります。

といっても、当時はこのあたりも生駒屋敷だったとされており
広大な敷地だったのを思い起こします。

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タグ:生駒
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生駒氏と信長の関係 [生駒屋敷]

生駒氏と信長との深い関係

それは、吉乃が信長の側室になったこと意外にもあったんです。


それは、信長の生母 土田御前。

彼女が生駒氏の出身だったのです。

生駒氏2代目生駒豊政の妹が嫁いだ、土田氏からの
養子親重に分家を認め、これが本家の生駒氏に対して
土田生駒氏となり、この系統から信長の母親が
でている。

生駒氏と信長は深い血縁関係で結ばれていると
いうわけだが、なぜか時代劇などには生駒氏はでてこない。 本日の一票お願いします。⇒にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
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吉乃桜です [生駒屋敷]

吉乃桜

生駒屋敷跡から少し離れた、いや割と距離のある場所に
この吉乃桜はあります。


ここで、吉乃さんは荼毘に付せられたといわれています。

この桜は、吉乃の方が荼毘に付された時、
供養の為に植えられたと伝えられているそうです。



ちなみに、吉乃桜の名前は、NHK大河ドラマ「信長」で
生駒の方(吉乃の方)を演じた女優の高木美保さんが、
平成4年5月5日に久昌寺を参拝された時に命名されたんだそうです


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生駒氏と織田信長 [生駒屋敷]

生駒氏が勢力をつけてきたころに、織田信長とのかかわりが始まったとされてます。

当時の当主 生駒家宗の娘 吉乃が信長の側室になったことで
互いがかかわりを持ってきてます。

吉乃は長男・織田信忠、次男・織田信雄を生んだ。

小折城を作ったのはこのころだったとされている。


城といっても、天守閣があったわけではなく

堀に囲まれた、要塞のような屋敷だったとされている。

本能寺の変のあと、小牧・長久手の戦いで生駒家宗の孫の

生駒利豊は秀吉につかえ、その後徳川家康に使えたとされる。

江戸時代に入り、生駒氏は尾張藩に仕え小折城は廃止されたが
小折村を領地として、明治までこの地で暮らしたという。


現在も、小折城の跡地には看板と碑が残る。 本日の一票お願いします。⇒にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
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生駒屋敷をたずねて [生駒屋敷]

今回は、生駒屋敷をたずねてみた。

生駒屋敷とは何だという方も多いと思いますが
まずは、説明します。

生駒屋敷または小折城とも呼ばれてます。

生駒氏は藤原忠仁の子孫で、大和国を本貫としていたが
応仁の乱のころ、戦火を逃れた生駒家広が
小折に移って屋敷を築いた。

後の岩倉街道などが通る交通の要所であったことから生駒氏は馬借として財を成し、
代々織田氏と関わり勢力を拡大するようになった。
最大時には飛騨から東三河にまで商圏を拡大していた。

ということから、尾張の大商人だったことがわかる。

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