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一橋治済の野望 その五 [一橋家]

さて、今回も一橋治済の野望をお送りします。

前回の終わりに意外な人物と書いた。

それが、松平定信。

本来、将軍になるはずの人が老中になって江戸城にやってきた。

そんな松平定信は、とにかくよく働いた。

田沼時代のみだれた風紀などを正すため、さまざまな改革をおこなった。

どんなに働いても、将軍家斉が成人するまでと知らずに。

やがて、家斉が成人すると松平定信は辞任に追い込まれた。

わずか6年の話。

すべて、一橋治済の計画のうち。

そして、この親子で政治を動かしていく。

というよりも、政治のほうは一橋治済がメインで
家斉は子作りに励み。

多くの子供をつくり、多くの大名家に送り込んだ。

まさに、自分のネットワークを広げようとしたのである。

こんな野望を計画したのが24歳の頃だという。

恐るべし野心家

一橋治済


思ったより長くなった、野心家の1面であった。

ただ、運も味方してたのであろう。

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一橋治済の野望 その四 [一橋家]

一橋治済の野望

またまた、つづいてこのテーマで

田沼意次が一橋治済と組んだ理由について

いろいろあるであろうが、いまのうちに恩を売っておこう。

そして、家斉が将軍になったときには
引き続き政治を主導できるだろう。

もし、松平定信が将軍になったら。

おそらく、賄賂政治の田沼は排除されるであろう。

なので、いまのまま政治の実験を握るには
恩を売っておこうという考えであろう。

しかし、誤算があったわけだ。

将軍家冶も死んでしまった。

なぜか?

毒殺の可能性が。

これには、田沼は絡んでいない。

むしろ、生きていてくれれば

自分を信頼してくれているのだから。

その証拠に、将軍死亡の3日後に失脚しているから。

一橋治済の作戦を見抜けなかっただけでなく
利用されただけであった。

そして、11代将軍家斉が誕生。

老中には、意外な人が就任した。

それは、また次回に。


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タグ:松平定信
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一橋治済の野望 その参 [一橋家]

さて、今回で3 回目となった
一橋治済の野望

前回で、田安家をつぶした
一橋治済

まあ、つぶしたといっても家自体はあるわけだし
後に自分の子供を押し付けることにもなる。

つぎに、標的となったのが10代将軍家冶のこども家基。

歳は18のころ

鷹狩に出かけた帰りの話

品川の寺で休憩後、急に具合が悪くなり

3日後に死亡

おそらく、毒殺であろう。

同行した医師は、田沼意次の息のかかった医師である。

背後に、田沼、治済の姿が見えてくるが、将軍家冶は気づいていなかった。

愛する息子を失い、失意の将軍は養子を迎えることになる。

田安家には、誰もいない

順番的に、一橋家の家斉が選ばれることになった。

まさに、田沼・治済の筋書きどうりになった。

では、なぜ田沼意次は治済に協力することになったのか?

このあたりは次回にでも。

待ちきれない人は、この本を読んでみると
何か見えてくるかも。

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一橋治済の野望 その弐 [一橋家]

前回、一橋治済の野望ということで書いてみた。

今回は、すこし続きを。

一橋治済は時の老中 田沼意次と組んで
田安家をつぶすことに着手。

その結果は、ご存知のとおり
田安家に残っていた、松平定信を白河藩に幕府命令で養子に出し。

田安家の当主は、病弱であるから
待っていれば自然にいなくなってくれた。

松平定信が残っていれば、家斉の将軍就任の大きな壁であったから。

とういうわけで、第1の障害を取り除き
続いては

というわけで、ながくなったので

また次回

今注目は


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一橋治済の野望 [一橋家]

今回は、城から離れてある人物に焦点をあててみた。

その人物は、徳川治済

11代将軍徳川家斉の父であり、8代将軍徳川吉宗の孫であり、一橋徳川家の2代目という
この人物。

徳川300年

一族には、さまざまな策略家がいたであろうが、おそらくこの人もベスト3には入るのではない。

ある歴史の本を読んでそう思った。

それはなにか?

まずは、彼の生い立ちから

徳川宗尹の4男として生まれる。

長男ではないから、家督は継げない。

しかし、兄2人が福井藩に養子にでたため、家督を継ぐことに。

14歳のときのこと。

まだ、このころは野心家としては目覚めてないだろう。

と思う。

この時点では、そうだった。

後の彼の最大の野望は息子を将軍にすること。

そのため、邪魔なのが将軍親子、

10代将軍、徳川家治、息子の竹千代、後の家基。

2人とも元気である。

11代は当然、家基できまるはず。

このふたりになにかあっても次の将軍は、御三卿の筆頭は田安家であるから
さらに壁が立ちはだかっている。

当然どうにもならないはずが、どうにかしてしまったのが
この人のすごいところ。

では、どうしたのか?


ながくなったので、また次回。


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