黒野城の画像 [黒野城]
本日も、黒野城
こちらが、黒野城の碑
こちらは、土塁の上から堀を撮ったもの。
土塁の4隅には櫓があったようです。
土塁の上から、本丸を望む、
といっても、ただのグラウンド
別の位置から望む堀
コレを見ると、堀の深さがわかるかな。
いま、この本を読みながら戦国の城を思い浮かべている。
このなかでも、紹介されている小谷城はいずれ紹介していこうかと。
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こちらは、土塁の上から堀を撮ったもの。
土塁の4隅には櫓があったようです。
土塁の上から、本丸を望む、
といっても、ただのグラウンド
別の位置から望む堀
コレを見ると、堀の深さがわかるかな。
いま、この本を読みながら戦国の城を思い浮かべている。
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タグ:黒野城
黒野城の続き [黒野城]
黒野城へ [黒野城]
今回は黒野城へ行ったという話。
まずは、黒野城の説明。
黒野城岐阜県岐阜市にある、戦国時代~江戸時代の城である。
美濃国黒野藩の城であるが、わずか13年で廃城となった。
城主は加藤貞泰である。
加藤貞泰の父加藤光泰は、はじめは斎藤道三に仕えていたが、斎藤龍興が織田信長に稲葉山城を追われた後、織田氏・豊臣氏に仕え、甲斐谷村城24万石を領した。
光泰は文禄の役で陣中で没した。嗣子貞泰は幼かったため領地を減ぜられ、40000石で黒野城に入った(光泰が石田三成と折り合いが悪かったため、三成の讒言で減封となったともいわれている。)
貞泰は黒野城を築城するとともに、城下を整備した。
慶長5(1600)年の関ヶ原合戦では、東軍に属して戦功を挙げ、本領を安堵された。
慶長15(1610)年、加藤氏は伯耆米子城20000石へ転封となり、黒野城は廃城となった
現在は本丸あとが公演として整備されています。
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まずは、黒野城の説明。
黒野城岐阜県岐阜市にある、戦国時代~江戸時代の城である。
美濃国黒野藩の城であるが、わずか13年で廃城となった。
城主は加藤貞泰である。
加藤貞泰の父加藤光泰は、はじめは斎藤道三に仕えていたが、斎藤龍興が織田信長に稲葉山城を追われた後、織田氏・豊臣氏に仕え、甲斐谷村城24万石を領した。
光泰は文禄の役で陣中で没した。嗣子貞泰は幼かったため領地を減ぜられ、40000石で黒野城に入った(光泰が石田三成と折り合いが悪かったため、三成の讒言で減封となったともいわれている。)
貞泰は黒野城を築城するとともに、城下を整備した。
慶長5(1600)年の関ヶ原合戦では、東軍に属して戦功を挙げ、本領を安堵された。
慶長15(1610)年、加藤氏は伯耆米子城20000石へ転封となり、黒野城は廃城となった
現在は本丸あとが公演として整備されています。
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