岡崎城 最後のたび [岡崎城]
今回が岡崎城
最後の回
これが、天守閣の前にある、家康公の遺言
石垣
当時からあったものですね。
何かの門の跡でしょうか
家康館
最後に電話ボックス
今回で岡崎城は終わり
意外に長くかかった。
いま、徳川一族の方の本を読んでいる
旧大名家の子孫がどのような生活を送っていたのか。
生の声が聞けるのが興味深い
この人もそうだが
春は昔―徳川宗家に生まれて
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岡崎城を旅する [岡崎城]
さて、今回も岡崎城
えな塚の説明看板
コレがえな塚
そして
ずばり天守閣が見えてきた
これが、城内からみた景色
さらに、石垣
当時からあったものか
本日はこんな感じで
今お勧め
岡崎城のちかくで人気のホテル
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えな塚の説明看板
コレがえな塚
そして
ずばり天守閣が見えてきた
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さらに、石垣
当時からあったものか
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岡崎城へいって [岡崎城]
今回も岡崎城ねた
板谷門址と書かれています。
なんとなく門があったような雰囲気が
門を背にみるとこんな感じ
先に川が見える
当時は、このあたりを物流船が通っていたかも
そして、門をくぐってみると
先には天守閣が見えてきた
ところで、また次回
家康の城ということで、こんな特集も
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板谷門址と書かれています。
なんとなく門があったような雰囲気が
門を背にみるとこんな感じ
先に川が見える
当時は、このあたりを物流船が通っていたかも
そして、門をくぐってみると
先には天守閣が見えてきた
ところで、また次回
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岡崎城へ行く [岡崎城]
今回も岡崎城の続き
二の丸あたりにある家康館
ここにある展示物は、ほとんど複製でした。
二の丸能楽堂
ここで、能の舞台が行われていたようです。
舞台はこんな感じで
家康の産湯の井戸だそうです。
なかを覗くと
こんな感じです。
つづきはまた次回
岡崎といえば味噌でしょう
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二の丸あたりにある家康館
ここにある展示物は、ほとんど複製でした。
二の丸能楽堂
ここで、能の舞台が行われていたようです。
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家康の産湯の井戸だそうです。
なかを覗くと
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岡崎城の旅 [岡崎城]
前回の続き
岡崎城の門
ここをくぐって天守閣へ行きます。
こちらが二の丸井戸のあと
こちらが説明看板
ずばり、井戸の中です。
お賽銭ですか?
小銭が入ってます。
続きは次回
こんな新聞みつけました。
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岡崎城の門
ここをくぐって天守閣へ行きます。
こちらが二の丸井戸のあと
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ずばり、井戸の中です。
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岡崎城へ行ってきた [岡崎城]
今回から岡崎城へ行ってきたときの
話などを紹介。
なんか、これまでのマイナーな城から
少しメジャーな感じの城になった。
ただ、全国レベルで岡崎城の知名度はどれくらいだろう。
徳川家康の出身地ということも、どれだけ認識されているか。
まずは、岡崎城の紹介。
菅生川と矢作川の合流地点にある龍頭山という丘陵を利用して造られている。
元は、龍頭山の砦として三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼、そして、
その子頼嗣が北方に対する防御として築城したものである。
当時は、龍燈山城と呼んだ。それを、松平清康が西郷信貞(松平昌安)から奪い取り
改修拡張整備したものが岡崎城である。
龍頭山はもともと小高い丘で、山頂に本丸が置かれた平山城として築かれていたが、
本多康重から3代忠利(1600年(慶長5年) - 1645年(正保2年))にわたる改修によって平城となっている。
この際、本丸に複合連結式望楼型3重3階の天守(1617年(元和3年))が建てられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E5%9F%8Eより
つまり、家康が城主としていたころは天守閣がなかったということ。
いまの感覚でいえば、当時から天守閣があったようにおもえるが。
続きは次回
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なんか、これまでのマイナーな城から
少しメジャーな感じの城になった。
ただ、全国レベルで岡崎城の知名度はどれくらいだろう。
徳川家康の出身地ということも、どれだけ認識されているか。
まずは、岡崎城の紹介。
菅生川と矢作川の合流地点にある龍頭山という丘陵を利用して造られている。
元は、龍頭山の砦として三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼、そして、
その子頼嗣が北方に対する防御として築城したものである。
当時は、龍燈山城と呼んだ。それを、松平清康が西郷信貞(松平昌安)から奪い取り
改修拡張整備したものが岡崎城である。
龍頭山はもともと小高い丘で、山頂に本丸が置かれた平山城として築かれていたが、
本多康重から3代忠利(1600年(慶長5年) - 1645年(正保2年))にわたる改修によって平城となっている。
この際、本丸に複合連結式望楼型3重3階の天守(1617年(元和3年))が建てられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E5%9F%8Eより
つまり、家康が城主としていたころは天守閣がなかったということ。
いまの感覚でいえば、当時から天守閣があったようにおもえるが。
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