加納城 [加納城]
今回は、岐阜県にある加納城を紹介
そのまえに、加納城について触れておこう
加納城はおおきくわけて、徳川以前と以後にわかれる。
徳川時代以前は動だったか
文安2年(1445年)に川手城の備えのため、土岐氏の家宰の斎藤利永によって沓井城として築城された。
船田合戦では斎藤妙純の居城となっていた。しかし、天文7年(1538年)にはすでに廃城となっている。
斎藤利永は美濃斉藤氏。
後の斉藤道三はここの家系をのっとったわけだ。
そして、徳川以後のはなし
慶長6年(1601年)に岐阜城が破却され、その代わりとして翌年7月1日から築城され、
9月の奥平氏の入城時には本丸・二ノ丸は完成していたようである。
縄張は徳川家康自身が行ったとされ、普請奉行は本多忠勝とし近隣の大名を動員した。
建材は主に岐阜城のものが用いられ、岐阜城天守を二ノ丸御三階櫓として利用したと伝えられる。
加納城は加納藩の藩主の居城となり、慶長7年(1603年)に奥平信昌が入った後、奥平氏の居城となった。
寛永9年(1632年)に奥平忠隆が死去、嫡子がいないために改易されると従兄弟の大久保忠職が入城、
一時的に城主となる。
その後の寛永16年(1639年)に戸田光重が入城、3代にわたり城主を務めるが移封され、
宝永8年(1711年)に安藤信友の居城となった。さらに時代が下って宝暦5年(1755年)に
永井信陳が加納藩主となり、明治に至るまで永井氏の居城となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E7%B4%8D%E5%9F%8Eより
ちなみに明治にはいり、建物は壊され
軍隊の施設になった。
現在は、石垣、堀が綺麗に残っている
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加納城はおおきくわけて、徳川以前と以後にわかれる。
徳川時代以前は動だったか
文安2年(1445年)に川手城の備えのため、土岐氏の家宰の斎藤利永によって沓井城として築城された。
船田合戦では斎藤妙純の居城となっていた。しかし、天文7年(1538年)にはすでに廃城となっている。
斎藤利永は美濃斉藤氏。
後の斉藤道三はここの家系をのっとったわけだ。
そして、徳川以後のはなし
慶長6年(1601年)に岐阜城が破却され、その代わりとして翌年7月1日から築城され、
9月の奥平氏の入城時には本丸・二ノ丸は完成していたようである。
縄張は徳川家康自身が行ったとされ、普請奉行は本多忠勝とし近隣の大名を動員した。
建材は主に岐阜城のものが用いられ、岐阜城天守を二ノ丸御三階櫓として利用したと伝えられる。
加納城は加納藩の藩主の居城となり、慶長7年(1603年)に奥平信昌が入った後、奥平氏の居城となった。
寛永9年(1632年)に奥平忠隆が死去、嫡子がいないために改易されると従兄弟の大久保忠職が入城、
一時的に城主となる。
その後の寛永16年(1639年)に戸田光重が入城、3代にわたり城主を務めるが移封され、
宝永8年(1711年)に安藤信友の居城となった。さらに時代が下って宝暦5年(1755年)に
永井信陳が加納藩主となり、明治に至るまで永井氏の居城となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E7%B4%8D%E5%9F%8Eより
ちなみに明治にはいり、建物は壊され
軍隊の施設になった。
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